みなさん、こんにちは!
タカハシ(@ntakahashi0505)です。
このところ日本の若者が他国と比べてITリテラシーが低いのではないか、という話題がネットで見られます。
こちらの記事の中では
日本の13~15歳(≒中学生)では,7割がデスクトップもノートも持っていません。他国の1~2割とは大違いです。
とのこと。
他の先進国6か国との比較ですが、日本の中学生はダントツでPCを持っていないとのこと…かなり衝撃を覚えました。
日本は何をやっとんだ!?
冷静になったあと、ふと父がパソコンを買ってくれたことを思い出しました。
SORD社製M5
SORD社のM5というマシンですがご存知ですか?SORD社は当時、日本のAppleとも呼ばれていた注目のベンチャー企業だったそうです。
このマシンを手に入れたのは、なんと私が幼稚園生のときです。今からかれこれ30年以上も前の話。
M5の発売は1982年ですから、1983年に発売された任天堂のファミリーコンピュータよりも前に発売されたマシンということです。
父は秋葉原の店頭で安く売っていたといっていましたが定価は49,800円。決して安い買い物ではありません。
「これからはパソコンの時代だ」
と熱を帯びて語っていたのを覚えています。
M5はゴム製のキーボードが配列されておりBASIC等のプログラムを組んで実行することができました。
ですが、カセット用のスロットもありまして、ファミコンのようにゲームソフトを楽しむこともできたんです。
父と私はよく秋葉原に買い物に行きました。私の目的はYAMAGIWAという家電屋さんで、M5用カセットのコーナーがあるお店でした。毎回のように私はゲームソフトをおねだりして買ってもらいました。
ギャラックス、ガッタンゴットン、ワープ&ワープ、ディグダグ、マッピー…M5は若い私にとっては最高の遊び道具となりました。
ほとんどゲームばっかりやってましたので、父はテレビがいつも占領されているのを悲しんでいました。
プログラムですか…?
やりましたよ。たぶん…。マニュアルを見ながら円や直線を描いたりはやっていたんじゃないかなーと思います。
NEC社製PC-98DO
1990年頃、私が中学生になりますとマイマシンは当時全盛を誇っていたNEC製のパソコンに選手交代しました。
PC9801シリーズとPC8801シリーズの両方の機能を備えているPC-98DOというマシンです。ご存知ですか?
当時はPC8801シリーズからPC9801シリーズに急激に以降している最中だったのですが、ゲームはPC8801シリーズのほうがたくさん出ていましたので、欲張りな私は両方使えるDOをセレクトしました。
当時の定価はなんと298,000円・・・!高・・・!
これも父が買い与えてくれました。父さん、よく買ったなぁ…。
このマシンは大活躍しました。
ツクール系ソフトでゲームを作る
私はゲームをプレイするのも好きでしたが、ゲームを作りたいという欲も出てきていて、RPGツクールとかシューティングツクールとか、ツクール系のソフトを買ってきて遊んでいました。少しは動くゲームができていたと思います。
ゲーム作りってほとんどがグラフィックスなんだなぁ、と感じていました。ほとんどの制作時間がドット打ちみたいな。
ワープロソフト:一太郎
あと、一太郎というソフト知ってますか?
今はすっかりMicroSoftにお株を奪われてしまいましたが、当時は一世風靡をしていたジャストシステム社のワープロソフトです。
へ~、今でも販売しているんだ。
さて、当時聴いていたJ-POPの音楽CDなんですが、カセットテープに録音してましたでしょ。ただ、歌詞カードについて私はなぜかワープロソフトでいちいち全部打ち込んで保存していました。
よっぽど音楽が好きだったんでしょう。自分で打ち込みたかったのです。
このおかげでブラインドタッチがとても速くなりました。
DTM:レコンポーザ
高専に入りました私は部活で吹奏楽部に入ったんですね。
サックス担当でしたが、部活とは別にインストバンドを組んでまして、T-SQUAREのコピーなどをしていたんですが、そのうちオリジナル曲もやるようになりました。
それでMIDI音源やキーボードも買ってDTMをやるようになりました。デスクトップミュージックってやつですな。
その時に使っていたのが、カモンミュージック社のレコンポーザ95というソフト。
音楽を数値で見るのって、けっこう面白かったしタメになったと思います。
このソフトで作曲をしたり編曲をしたり、大活躍でした。
ちなみにですが、カモンミュージック社は2013年に営業終了しました…青春の1ページが終わったみたいで、なんか悲しいです。
そして音楽の道へ
父の話というよりは、すっかりパソコンの話になっちゃいました。
興奮していたものですから、つい…
さて、私は高専や大学では情報系の専攻でしたので、父もすっかりその方面に就職するものだと思っていたようです。
もしそうだったとすると私は今頃、立派なエンジニアになっていたかも知れませんね。
しかし、世の中ってやつはそうは問屋が卸さない…!当時の私はすっかり音楽に夢中になっていたのです。
大学院修了間際になって、音楽で生計を立てていくことを決めました。
当然父には反対をされましたが、どうしてもチャレンジしたいと必死に訴えた末、「30歳までモノにならなかったらあきらめる」という約束のもと押し切りました。
その後の話については、こちらの記事でも触れていますが
残念ながら私の夢はかないませんでした。サックス奏者の需要はとても少なかったのです。
こうして30歳を迎え、音楽の道はあきらめることになりました。
父と都内の居酒屋に誘って音楽を辞めるという話をしました。まさか約束を守ると思ってなかったのでしょう、嬉しそうでした。
私も自分でも約束を守るとは思っていませんでした。何より自分のアイデンティティの多くは音楽の中にありましたから、あきらめるということに恐れがありました。
音楽を目指してない自分がいたとして、どこで自分を保てばいいのかわからなくなるのが不安でした。
でも、私は父との約束を優先しました。
あの酒は生涯で一番うまかったです。
まとめ:そして今に至る
これからはコンピュータの時代と言っていた父の予言通りになり、世の中で戦うためにはコンピュータやITのスキルが必須になりました。
私はそれとは知らずに幼少期からパソコンを遊び道具のように与えられ、自然に触れ合う機会をずっと持ち続けることができました。趣味でも音楽でも仕事でも活用できることを理解し、そのスキルを身に着けていました。
ゲームばっかりやってても、音楽にウツツを抜かしていても、父はよく辛抱して見守っていたと思います。
途中フラフラはしましたが、結果的に私はこうしてITとともに生きていくことになりました。
何が言いたいかと言うと、結局は
幼稚園のときにパソコンを買い与えてくれた父に本当に感謝している
— タカハシノリアキ@パーフェクトExcelVBAは11月発売予定 (@ntakahashi0505) February 26, 2015
ということです。
父さん、ありがとう。
今度、またおいしいお酒を飲みに行きましょう。
コメント
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