みなさん、こんにちは! タカハシ(@ntakahashi0505)です。
学校や職場では「能力」によって人を選び、選ばれる…この当たり前に社会に浸透している営み。しかし、そこには違和感や息苦しさを感じます。
今回は、そのテーマに切り込む『働くということ』という書籍を紹介します。
ということで、今回は「『働くということ』~「能力」で「選び・選ばれる」のはいかがなものか?」です。
では、行ってみましょう!
『働くということ~ 「能力主義」を超えて』
本書は「働くということ」というとても大きなテーマをタイトルとしていますが、その切り口は以下の問いです。
「能力」という概念を用いて「人が人を選び、人が人に選ばれること」、それはどうなのか?
だとしたら、他者とはどう共に働くことができるのか?
著者の勅使川原真衣さんは、教育社会学を学び、外資系コンサルティングファームでの経験を経て組織開発の支援を行っていらっしゃいます。また、二児の母であり、乳がんの闘病中とのこと。
この本を書くのが「こわい」と表現されていらっしゃいますが、しかし、選ぶ・選ばれる社会の構造を浮き彫りにしつつ、痛快に切り込んでいくのは、そういった理由があるからかもしれません。
『働くということ』の構成
「選ぶ・選ばれる」という仕組みへの違和感
プロローグ「働くということ――「選ぶ」「選ばれる」の考察から」に続き、序章は「「選ばれたい」の興りと違和感」です。
いい学校に入りたい、いい会社に入りたい、昇進したい―。学校でも職場でも、我々はそうした「選ばれたい」に突き動かされて行動をしている、もしくは、させられています。
その基準となるのが「能力」です。
このパートでは、その能力によって選び・選ばれるという営みが社会にどう根づいているのか、なぜ根づいているのかを探ります。
「能力の急所」から能力主義の問題を解き明かす
第一章は「「選ぶ」「選ばれる」の実相――能力の急所」。
空前のヒット作、空想社会科学小説『メリトクラシーの興隆』の描く世界をスタートとして、能力主義の何が問題なのかを、いくつかの視点から解き明かしていきます。
ではどう働くのか?キーワードは「関係性」
第二章 「「関係性」の勘所――働くとはどういうことか」では、能力主義と「選び・選ばれる」を否定するのであれば、どう他者と働いていくのか。その代案を示します。
それは、選ぶのは人や環境ではなく、自分の態勢・モードであるというもの。それがどういったものなのか、ぜひ本書を手にとって読んでみてください。
実践から見る「脱能力主義」
第三章「実践のモメント」では、著者が組織開発を伴走した中のいくつかの事例とともに、脱能力主義の実践を見ていきます。
著者がクライアントと話をする中で、どのような気づきとモードの変化があったのか。ご覧ください。
労働、教育、社会のあちこちに切り込む
「終章 「選ばれし者」の幕切れへ――労働、教育、社会」では、リスキリング、教育の土台、効率性、タイパなどといった僕らの日常にインストールされているさまざまな事象について、バッサバッサと切り込んでいきます。
そして、エピローグがあり閉じられるという構成です。
能力とは仮構的概念である
いくつか印象に残った点をお伝えします。
まず、本書では「能力とは仮構的概念である」と伝えています。つまり、実際にないものを想像で作り上げているということです。
そこで僕が、思い出すのは『私たちはどう学んでいるのかー創発から見る認知の変化』という書籍でした。
認知科学のアプローチで「学び」を論じる書籍なのですが、「第1章 能力という虚構」では以下のように述べられていました。
能力というのは本人のパワー、力量として備わっていて、いつでも発揮できそうな雰囲気を持つように使われている(中略)
能力が発揮できるかどうかは文脈に非常に依存しています。
採用で重視されている能力ナンバーワンは「コミュニケーション能力」だそうです。
うまくコミュニケーションできるかどうか、発信者も大事ですが、当然ながら受信者もそこに影響を与えるわけですし、「心理的安全性」などといったチームとして持つ要素も影響します。「コミュ力」というように、個人に分けられて備わっているものではないということです。
「学び」というのも非常に大きな概念であるわけですが、その中から、点数化できるところのごく一部だけ(たとえば、年号の記憶、計算能力など)を抽出したのが「学力」といえるでしょう。しかし、それ以外の点数化できないところにも、たくさんの価値があるはずですよね。
メリトクラシーによる人生の采配とは
なぜ私たちは「能力」で人を判断するようになったのでしょうか。これには、歴史的な背景があります。
かつての社会では、身分制度によって資源の分配が決められていました。生まれが良ければたくさん分配に預かり、そうでなければ、その分配は少ない。つまり、生まれによって人々の人生が采配されていました。
しかし、近代化が進むにつれて、社会は「より公平な分配」を求めるようになりました。そこで登場したのが「メリトクラシー」です。これは、社会へのメリットによって人生を采配しようという考えです。では、社会へのメリットをどうはかるのか、そのために用いられたのが「能力」です。
学力が高ければ、良い学校に入り、良い職場に就職し、その能力により昇進していく。それができる人とできない人は分け前が違うということです。
社会の資源を「分け合う」ために、個人の能力が「分かる」ことにして、人が人を選別する、つまり「分けられる」ようにしたということです。
ふと振り返ると僕の人生は、あまり「選び・選ばれる」の中にはいなかったように思います。
高専、大学、大学院と進学しましたが、その選び・選ばれのルートから自ら外れ、ミュージシャンに。
いっときサラリーマンに戻りますが、リストラ・ブラック企業の経験から「選ばれる」の危険性を身をもって味わい、そこから独立し、「選び・選ばれる」から外れたところのほうで、地に足つけたほうがむしろ安全と思うようになり、今はそこにいます。
無限の「資源」に目を向けるのはどうか
社会の資源を「お金」という有限のものに目を向けると、その分配は、どうも競争になってしまいます。
しかも、その競争は、実は人が分かるものではない仮構的概念である能力によるものだと知ると、そのモヤモヤは一層ふくらんでしまいます。
最近は、そこまでお金とそのための競争に執着する人も少なくなってきたようにも思います。その人たちが、では別に何を求めて行動しているかというと、「ワクワクする」とか「自分らしくある」とかそういうカタチのないもので、他の人と競争をしなくても得られるものだったりします。これらカタチのないものを、社会の資源、人生の資源として捉えるなら、無限に生み出されるので、分け合う必要もない。
そういう指向で日々を過ごすというのもよいのでは、などとも思いました。
まとめ
以上、「『働くということ』~「能力」で「選び・選ばれる」のはいかがなものか?」についてお伝えしました。
引き続き、みなさんがいきいきと学び・働くためのヒントをお届けしていきます。次回をお楽しみに!
この話を耳から聴きたい方はこちらからどうぞ!