みなさん、おはようございます!タカハシ(@ntakahashi0505)です。
こちらの記事は、タカハシが音声メディアVoicyの「スキルアップラジオ」にて放送した内容から、ピックアップしてお届けします!
今回のテーマは、「目的に縛られている僕は不自由なのか」の答え合わせです。
なお、以下で実際にお聴きいただくこともできます!
では、よろしくお願いいたします!
目的に縛られている僕は不自由なのか
目的に縛られている僕は不自由なのか。このタイトルで放送させていただいたのが483回。なんと去年の10月3日の放送になるんです。
荒木博行さんのVoicyチャンネルの放送が発端
この問いがなぜ生まれたかという話なんですが、去年10月に聞いた荒木博行さんのVoicyチャンネルの放送が発端になります。
この時、荒木さんが取り上げていたのが、哲学者國分功一郎先生の「目的への抵抗」という書籍でして、その初めに紹介された一節を紹介していたんです。
人間が自由であるための重要な要素の1つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に移行するところにこそ人間の自由がある。
このような一節でした。
リスナーの皆さんも、この一節には違和感を感じたかもしれません。というのも、目的というものはビジネスでは良いものと捉えられています。
何をするにも目的はなんですか。そこははっきりしないとうまくいかないよ。こんなふうに我々は伝えられていて、その通り頑張って活動しているんです。
しかし、本書では、人間が自由であるためには目的に抵抗しなくてはいけない。このように書いているわけで、我々がいつも信じて追いかけている目的。これさえも良くないもののように伝えているように見えます。しかも、この一節なんですが、僕にとってはより一層重みがあるものだったんです。
ずっと「日本の働くの価値を上げる」を目的にしてきた
というのも、僕は独立してから10年近く活動しているんですが、ずっと日本での働くの価値を上げることを目指して活動してきました。そうすると、そうやって活動してきたこの10年近く、それが不自由だったのかという問いがたつんです。
そこで、荒木さんのVoicyを聞いた後、この問いが頭を離れなくなりました。
僕は間違いなく今の仕事は好きだというふうに言うことができますし、この10年近くの活動を通して多くの学びを得ることができたとも感じています。そして何より、かけがえのない仲間とも出会うことができました。
働くの価値を上げるこの信念をぶれずに貫いてきた。そういったとこにも結構自信を持っていた部分もあるんです。そんな活動が不自由であったなどといえるわけはないよなと、その確信はあります。
しかし一方で、2023年を振り返ると、リスキリングブームと出版のチャンスに乗じて大きな挑戦をしたものの、思うように波に乗れず、設定した目標を追いかけ続けるうちに、次第に疲れを感じ始めました。
物事を楽しむ時間があってもいいのではないか
そんなふうに感じていた自分もいたというのは事実なんです。なので、可能な限りリソースをかけて、よそ見をせずにまっしぐらに目的に向かう。
それだけではなくて、時にはその目的から解放されて、感性の赴くままに物事を楽しむ時間というのがあってもいいんじゃないか。そんなふうにも思ったりしたわけです。
でも、そんなに休んでしまうと、働くの価値を上げるという信念になんとなく不義理な気もしてしまうし、そう考えるとなんか違う気もする。そんな、問答が僕の中でぐるぐる巡っていたんです。
この問いの答えを出すには、「目的への抵抗」これを読むことなんですが、それと向き合うのがちょっと怖いなというか、だいぶ怖いなと思ってまして、ズルズルと時間が経っていてしまったんです。
そして2024年に入ってしばらくしてから、ようやくこの書籍「目的への抵抗」を手に取ることができましたというのが今回になります。
書籍『目的への抵抗』の紹介
さて、まず「目的への抵抗」この書籍について簡単に紹介していきたいと思います。
『目的への抵抗』の構成
本は大きく2部構成になっています。
前半第1部の方は、コロナ禍で起きていたことがテーマになっているんです。
もう少し具体的にお伝えすると、コロナ禍で我々が自然に受け入れてしまっていたある事情に、哲学の視点から警鐘を鳴らす。そういったテーマです。
そして後半はそこから派生して、目的という概念の深掘りとその力にどう抗うのか。それがテーマとなっています。
書籍のベースは大学生や高校生向けの講話
全体でボリュームとしては208ページですし、実はこの書籍のベースは大学生や高校生向けの講話。これをベースにしているので、とても優しい語り口になっているんです。
プラスして我々の身近だったテーマをメインに据えているということもあって、哲学書に不慣れな僕だったとしても、そこまで抵抗を感じずに読むことができたというところです。
とはいえ、「支配」「目的」「贅沢」「自由」「遊び」「手段」。普段当たり前に使っている言葉でも、よくよく考えるとその概念をうまく言葉で説明することができない、そういった深い言葉だったりするわけです。
そういった当たり前の言葉たちと向き合うというのは、なかなかないチャンスなんじゃないかなと思います。
僕は今回、目的という概念と向き合うためにこの書籍を手に取ったんですが、1回読んで全部理解するってのはすごく難しいなと感じました。
とはいえ、別の気になることがあった時に読み返すと、そこで新たな発見があるんじゃないかなと思います。
ぜひ、哲学の入門書としても向いていると思いますので、気になる方は手元に置いてみていただければと思います。
目的を超えるには
では、僕の問いの答えについて一緒に考えていきたいんですが、メインのパートは第2部になりますので、そこから一部だけ紹介をしていきたいと思います。
第2部では、哲学者のハンナ・アーレントさんという方の話がちょくちょく出てきます。
このハンナ・アーレントさん、目的とか手段と、あと行為、そして自由、これについてこんなふうに伝えているんです。
目的とは、まさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義に他ならない。行為の1つ1つの局面において、目的が重要な要因でないというわけではない。こうした要因を超越し得る限りでのみ、行為は自由なのである。
このように伝えられています。
目的によって正当化される行為は不自由
ちょっと1回聞いただけではわからないと思うので、國分先生が用いられていた文化祭に参加するためにクラスで話し合いをする。この状況でいうとどうなのかということをお話ししたいと思います。
みんなはクラスで話し合いをするという行為をしているのですが、それは文化祭に参加するという目的があるわけです。そして、その目的によって、クラスの話し合いという行為は正当化されるということができます。
ここで文化祭に参加するために話し合いをしていますしか言えない話し合いの行為だったとすると、それは不自由であるということなんです。
なぜなら、その行為は目的を超越していないからです。
行為が自由であるためには遊びが必要
では、この話し合いという行為は自由であるためにはどうすればいいかという話なんですが、ここで新たな概念・キーワードとして遊びというのが出てくるんです。
國分先生は、この遊びについてこのように定義されています。
遊びとは、目的によって開始されつつも、目的を超える行為。
たとえばこんなこともあると思います。
文化祭に参加するために話を始めたんですが、その話し合い自体がとてもワクワクするもので、みんなで楽しくなっちゃいました。
そうなると、元々目的としては文化祭に参加するために話し合いをする必要があったんです。ただ、やっている最中にそれ自体が楽しくなってしまって、そもそもの目的なんてどうでも良くなったともいえるような状況になったってことなんです。
こうなると、その行為は本来の目的を超えられる行為。つまり遊びといえますし、自由であったといえるということなんです。
コミュニティ「ノンプロ研」で起きている同じ現象
実はこれと同じような現象を、僕はコミュニティノンプロ研で見ているんです。
ノンプロ研に入会してくる皆さん。最初はプログラミングを学ぶため、この目的でいらっしゃいます。
ただ、それがうまくいった場合、講座を受けたりとかメンバーと交流したりとか、そういった活動を続けていくと、プログラミングを学ぶという目的はもちろんあり続けるんですが、その活動自体が楽しくなってきた。そんなふうにおっしゃっていただける時が結構あるんです。
これは先ほどの文化祭の状態と同じですよね。目的によって開始されたんですが、目的を超えた。そもそも目的はまだまだ達成していないが、そのプロセス自体が十分に楽しくなったということなんです。
これは遊びであり、自由であるということです。結論としては働くの価値を上げる。これを目指してきた活動、そのほとんどが不自由ではなかったといえるかなと思います。なぜなら、そのプロセス自体がワクワクするもので、楽しくて夢中になるものだったからです。
一方で、2023年はリスキリングブームとか色々な事情から、僕自身気を吐き過ぎたというのがあったかもしれません。それによって目的に縛られた。そういった状態にやや陥っていたと言えるんじゃないかなと思います。
まとめ
ということで、今日はVoicy「スキルアップラジオ」の放送から「「目的に縛られている僕は不自由なのか」の答え合わせ」をお届けしました。
タカハシのVoicyの放送はこちらからお聴きいただけます。
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では、また。